第1章 生い立ち

 大正6年3月26日、大阪市南区長堀橋筋1丁目42番地、堺筋と大宝寺町筋の角の家に次女として生まれる。姉に蔦子(つたこ)、弟に大(まさる)そして妹に智恵子(ちえこ)がおり、4人兄弟である。


 当時、堺筋には市電が通り、筋向いに高島屋があった。大宝寺町筋を西へ行くと大宝小学校を通って心斎橋筋に出る。右に十合(そごう)百貨店、左に大丸百貨店があり、よく心ブラに出かけたものだった。家業は老舗の雑穀問屋西池商店で祖父の高太郎(たかたろう)、父の常次郎(つねじろう)、母のマサ、叔父、番頭、丁稚達と大世帯であった。


 常次郎の父は早く死に、国村高太郎が婿に入り、松本鹿之助(しかのすけ)、岡本貞が生まれ、母が死に、後妻に秀夫、末男が生まれた。西池は宇治の出で、高太郎は出石(いずし)の出である。高太郎は常次郎の叔父に当たる。高太郎の姪のマサを常次郎の嫁に迎える。常次郎とマサはいとこになる。


 マサは母が早く死に、父は酒呑みで貧乏の中、弟の国村卯三郎の面倒を見たしっかりものであった。高太郎は、常次郎が跡継ぎだが商売より字を書いたり本を読んだりが好きで商売に向かないので、マサを見込んで嫁に迎え、その後、自分は隠居して十三(じゅうそう)に移っている。


 常次郎は長女、すなわち私の姉の蔦子に婿養子として篤士(とくお)を迎えた。弟の(まさる)が跡継ぎなのだが常次郎は商売がいやなので、大の成長が待てずに婿をとることにしたのである。


 篤士は糯米問屋白井商店に勤めていたが、叔父の松本鹿之助が見込んで世話をしてくれた。篤士は斜陽の雑穀問屋を糯米問屋に切り替えて、勢いを盛り返した。そして、白井の甥であり同僚であった吉田義三(ぎぞう)を私と結婚させた。母は義三が男前であり弁が立つので大変気に入った。


 私は夕陽丘高等女学校を卒業したあと花嫁修業がいやで三和銀行に勤めていたが3年でやめて、昭和13年11月23日に結婚した。しばらく旭区大宮町の親の家にいたが南区瓦屋町に家を構えて糯米問屋を始めた。丁稚2人、女中1人を使って順調に見えたが日支事変(日中戦争)で米(こめ)が統制になり配給制で商売が出来なくなった。その間、14年にが生まれている。


 小売商なら続けられたのに、義三は小売はいやだと言って16年に廃業した。長女の寿美江(すみえ)が生まれた年であり、太平洋戦争勃発の年でもある。大宮町に戻り義三は徴用で門真の天辻鋼球に勤め、18年に次男の晋悟(しんご)が生まれた。19年には戦争が激しくなり、私と子供達は会社の松下さんの池田市の自宅の離れに疎開させて頂き、20年8月15日の終戦と共に大宮町に戻った。


第2章 北海道
義三 30歳 保子 28歳 武 6歳 寿美江 4歳 晋悟 2歳 悠紀子 0歳


 昭和20年8月15日の終戦を疎開先の池田市で迎えた。数日後、大阪市旭区の自宅に引き上げ、10月1日に次女の悠紀子(ゆきこ)を出産した。まだ産褥(さんじょく)のあるうちに夫の義三から北海道開拓者募集に申し込んで、10月21日に出発と聞かされた。あまりにも急な話なので驚いて、すぐ堺市の石津にある実家に知らせに行った。


 その時、実家には母のマサ、妹の智恵子そして姉の遺した幼い甥の宏(ひろし)の3人であった。姉の蔦子と姪の愛子は姉婿の篤士(とくお)の出征中に結核で死亡していた。父の常次郎も終戦直前に病死していた。篤士と弟の大(まさる)はまだ出征したままであった。そんな所に私と6歳を頭に4人の子供を連れて世話になる訳にもいかず、産後まだ日も浅いので心配ではあるが、やむを得ず義三と共に行く事にした。


 10月21日、妹に見送られて秋たけなわの大阪を後にした。当時北海道と言っただけでも遥か遠いのに、まして北の涯(はて)に近い、聞いたことも無いような土地へ行くことは、まるで外国へでも行くような思いで、もう二度と大阪の土を踏むことは無いだろうと悲壮な覚悟であった。


 鈍行(どんこう=普通列車)で駅に止まるたびにおむつを洗いながら25日の夕方に苫前郡 初山別村(しょさんべつむら)の豊岬(とよさき)という、日本海に面した土地に降り立った。羽幌までは汽車に乗り、そこから北の遠別までの10里(約40q)ほどの間は鉄道が通じていないので、その中間くらいの位置にある豊岬へはバスで行った。


 やっと目的地にたどり着くと、日は暮れかかっており、まだ10月だというのに吹雪であった。大阪からは24家族が来たのだが、僻地と寒さに驚いて数家族はすぐに大阪へ引き返してしまった。


 空襲で焼け出されたり職を失った人がほとんどだったので、うちのように戦災にも遭わず、戦時中は軍需工場になっていて徴用で働かされていた工場からも、「終戦と共に本来の工場の姿に戻るので、そのまま残って働きなさい」と言われ、さしずめ生活に困らないのに、なぜこんな所へ来たのかと不思議がられた。


 それというのも義三はいたって気が強く、人に使われるのはいやな上に、本業の糯米問屋は米(こめ)の統制でできなくなっていたところ、開拓に行けば土地を5町歩(=3000坪≒50000u)も只で貰え、農機具や牛や馬なども国が貸してくれるという甘い話に、同僚の入沢(いりざわ)さんと意気投合して乗ってしまったらしい。


第3章 野辺送り
義三 31歳 保子 28歳 武 6歳 寿美江 5歳 晋悟 2歳 悠紀子 0


 さきゆき心細くなって次々と大阪へ帰って行ったが、義三は一旦決心したからには故郷に錦を飾るまでは頑張るつもりなので、大阪へ戻ることなど全然考えなかった。


 こうして今まで全く知らなかった世界が始まったのだった。私たちは2軒のお寺と倉庫へ分宿することになって、うちの家族と数家族は加藤さんのお寺にお世話になった、本堂の床に雑魚寝である。食糧は農家の好意で畑の肥料にと掘り残してある細いジャガイモを拾わせてもらったりして当座を凌いだ。


 私は乳飲み子を抱えているので、囲炉裏でおむつを乾かせてもらったり大変親切にしていただいたが何しろ寒かった。当地の人ほど充分な防寒の衣類の無いこともあるが、みじめさ、心細さが拍車をかけたのかも知れない。


 いよいよ、山の上の開墾の割り当てをくじ引きで決めることになった。うちは比較的山の入り口の方が当たったが、かなり奥の熊の出てくるような所が当たった人は気の毒であった。


 山のふもとに私たちの住む掘っ立て小屋が出来上がったので、12月に引っ越した。壁は板を一重に横に打ち合わせてあるだけなので、吹雪が板の合わせ目から吹き込んで、朝起きると布団の上にうっすらと雪が積もっていた。北海道の雪は見えないような隙間からでも吹き込んでくるのである。


 山で枯れ木を拾ってきて囲炉裏で燃やし、魚油を皿に入れてぼろ布を縒(よ)って芯にして灯にした。水はかなり離れた沢まで汲みに行かねばならず、まるで原始生活に戻ったようであった。焚き木は生木と枯れ木の見分けがつかず燃えなくて困った。男の人達は大方炭坑へ出稼ぎに行ったが、義三は毎日山の伐採に出かけた。


 1月のある朝、赤ん坊の悠紀子の様子が変だ。しゃっくりが止まらない。風邪を引いたのかもしれない。義三は山の方が大切だと出かけてしまうし、医者は5里(約20q)程もある羽幌か遠別まで行かねばならないので、途方にくれて仲間の前田さんに助けを求めた。すぐに農家に走って行って下さり馬橇(ばそり)を仕立ててもらって、猛吹雪の中を一緒に行って下さった。


 羽幌までの道のりの何と遠いこと。途中で悠紀子は息絶えてしまった。やっと医者にたどり着いたときは成す術(すべ)も無く肺炎の診断だけであった。


 生まれて100日あまり、「悠紀子ごめんね。大阪にいたら死なずに済んだのに、死にに来たようなものね。」本当に可哀想な事をした。何の手当てもせず見殺しにしたようなものだ。


 仲間の人達が山で木を切って下さって荼毘に付した。これこそ野辺の送りというべきか。この時2歳の晋悟は大阪にいるときから大豆やとうもろこしの代用食で腸を壊していたので未だに歩けず、こんな環境ではとてもこの冬は越せないのではないかと案じていたのに、悠紀子が身代わりになってくれたのかも知れない。だんだん元気になってきた。


第4章 ニシン場
義三 31歳 保子 28歳 武 6歳 寿美江 5歳 晋悟 2歳


 さて、私たちの当てがわれた土地は山あり谷ありで、実際に開墾できる所はどれほどあるのか。1月になって雪がしばれて歩きやすくなったので、義三が農家の方に教わって作った藁沓(わらぐつ)を履いて、私もいよいよ山へ木を切りに行くことになった。


 春になって雪が解けたら開墾するところの熊笹(くまざさ)が陽に当たって良く乾燥するように立ち木を今のうちに切って置かねばならない。生まれて初めて鋸(のこ)を持って立ち木を切る。背丈以上に積もっている雪の面に沿って切るのであるが、始めは怖くて細い木ばかり切っていたのが、だんだん慣れてきて、かなり太い木も切れるようになった。


 隣の木に引っかからぬように見定めて、倒す方へ3分の1ほど切り、反対側から丁度先の切り口に合うようにして切り倒す。ドゥーと大きな地響きと共にうまく倒れたときはほっとするが、切り口が合わなくて木が裂けたり隣の木に引っ掛かったりした時は怖かった。倒した木は枝を払い1尺(約30p)ほどに切って背負って家に持って帰り、斧(おの)で割って軒に積み上げて乾かした。


 晴れているからと安心していると急に吹雪(ふぶ)いてきて足もとも見えなくなり、帰る道も分からなくなって、吹雪がやまなかったらこのままここで凍え死にするのではないかと心細い思いをしたことも何度か。登山者が冬山で遭難するのもこんな状態かも知れない。


 こんな時は、ただじっと吹雪のやむのを待つしかない。大阪にいてはとても想像のつかないことである。それにしても北海道の吹雪は恐ろしい。


 3月の始め頃、まだ根雪のある頃から豊岬の海にニシンが来た。いわゆるニシン場(ば)である。ニシンが来れば村中総出で学校も休みである。朝まだ暗い中に浜へ行って、刺網(さしあみ)の漁師の家に雇ってもらった。


 船がニシンを積んで沖から帰ってくると、掛け声をかけながらロープで船を浜へ引っ張り上げる。船から網を下ろし何人か向かい合って板の上にニシンを網からふるい落とす。それを背負ったもっこに入れてもらって倉庫に運ぶのだが、だだっ広い倉庫に高く渡した踏み板の上を登って行って、頂上で体を捻って中身を下へ落とすのである。慣れないうちは足が震えてバランスを崩し、何度もニシンの中へ墜落した。日の暮れる頃、帰ってくる船もなくなると一日の漁の終りである。


 手間賃は船1そうに対して、もっこ山盛り一杯のニシンである。漁のある間は何日も隅に積んで置き、時化(しけ)で漁の無い日にもっこで背負って何回も往復して家まで運ぶのだが、遠いのでかなり重労働である。


 そしてそのニシンは数の子と白子を取り出して、身は藁(わら)を通して竿(さお)に干す。外側が乾いたら、マキリ(間切包丁=漁師が使う小刀)で身を開いて完全に干し上げる。これが身欠き(みがき)ニシンかと初めて知った。


 数の子とニシンは出来上がった頃に業者が買いに来る。数の子とニシンの身の方は値が良くて骨付きの方は肥料にするとかで安い。自家用は数の子のクズと骨付きの方である。収入の無い私達には唯一の現金収入であり、一年中の蛋白源であり、どんなに助かったか知れない。ニシン様々である。武、寿美江もニシン場で働いた。


 漁師の話では昔は船が漕げない位たくさんニシンが来たとか。ニシン群来(くき)とはこの様な光景を言うのだろうか。しかし、このニシンも 2、3年でばったり来なくなり、海に何か異変でもあったのか不思議だった。


第5章 開墾
義三 31歳 保子 29歳 武 6歳 寿美江 5歳 晋悟 2歳


 ニシン場も終わり、ようやく根雪も融けると、開墾地の山焼きである。冬に伐採してあった開墾予定地の周辺の、びっしり生えた背丈ほどもある熊笹を額縁状に刈り取って取り除き、火が這わないように各所にバケツの水を置き、仲間の人達に応援してもらって火を付ける。熊笹は相当油気があるのかバリバリバリとものすごい音で勢い良く空高く炎を上げて燃えていく。なんとも恐ろしい光景である。山火事で何日も燃え続けるというのもこんなのだろうと思った。


 焼いた後いよいよ開墾に取り掛かる。丸鍬でひと振りひと振り土を起こしていくのだが、熊笹の根が網の目のように絡み合っているので、力任せに振り下ろさないと根が切れない。起こした土の塊を子供達が振って根っ子を外に運び出す。あとになってから根っ子は腐って肥料になるから出さなくても良いと教えられた。何事によらず知らないことばかりで、無駄な労力をずいぶん費やしたものだ。


 朝、夜が明けぬうちから日が暮れるまでびっしり働いた。義三は早く成果を上げたい一心で自分も人一倍働いたが、子供達にも叱咤(しった)激励の毎日だった。子供達も良く働いてくれた。よその家は子供が大きくて助けてもらえたが、うちは子供が一番小さくて、よそに負けたくないという焦りがあった。


 昭和22年初めに3女の玲子(れいこ)が誕生した。生まれつき体が弱くて北海道の厳しい冬を生き抜くことができず、数日でむなしく息を引き取ってしまった。乳児をこの地で育てるのはいかに大変か、思い知らされた。悠紀子に続いて2人の子を失ったことになる。


 仲間の男の人達は冬に炭坑へ行くが義三は開墾が遅れると言って出稼ぎに行かないので、お金が底をついてしまった。北海道へ来るときに義三の父の遺してくれた借家5軒を担保にして叔父の末太郎からお金をたしか4万円借りて来たが、それを売らせてもらうよう頼みに義三は昭和22年大阪へ行き、3軒を2万円で売った。足元を見られて安く叩かれたらしい。


 お金の都合もつき、その時ちょうど弟の米次(よねじ:義三の実弟)が復員して来たので手伝ってもらうために北海道へ連れて来た。米次は後々まで「兄の口車に乗せられてひどい目にあった」とこぼしていた。


 掘っ立て小屋ももう限界なので各自自分の土地に家を建てることになり、山の木を切って丸太のまま柱を組み、屋根を熊笹で葺き、家ができあがった。米次には大変助けてもらった。この時分は仲間は8家族に減っていた。


第6章 挫折
義三 33歳 保子 31歳 武 8歳 寿美江 7歳 晋悟 5歳 哲朗 0歳


 昭和23年に3男の哲朗(てつお)が生まれた。上の2人を死なせているのでかなり心配したが、新しい家でともかく無事に育ってくれた。


 牛と馬が来た。朝晩の乳搾りが私の日課となった。熊笹を刈ったあとの草の生えたところへ牛を繋ぐため乳房を傷つけ、搾ると痛がって、武に持たせているバケツを蹴り、せっかく搾った乳を全部こぼしてしまったことも何度か。牛や馬を外に出して木の幹に繋ぐのも、慣れない内は本当に怖かった。武や晋悟も鞍を付けたり、荷車を付けたり一所懸命世話をした。寿美江はもっぱら子守と炊事である。


 開墾地からはボツボツ小豆や大豆、とうもろこしやジャガイモ等が取れ出したが、酸性土壌とやらで土地改良しなくてはいけないとか、冷害やらで思うようにはかどらず、悲観的なムードが広がってきた。それに、仲間の奥さんが2人も亡くなるし、大阪もだいぶん食糧事情が良くなってきたとの噂もあり、1軒2軒と帰って行った。


 米次もこき使われるばかりで何の見返りもないので、とうとう大阪へ帰ってしまった。米次には随分助けてもらってありがたかったが、長い軍隊生活からやっと日本へ帰ってきたのに本当に気の毒なことをした。


 昭和26年に4男の敏恭(としゆき)が誕生した。義三は大きな期待に反して成果が上がらないので、だんだんやけを起こして私や子供達を怒鳴りたおすし、配給のお米は全部どぶ酒にして酔っては絡んでくる。食事中「お父さんの話をおとなしく聞かなかった」と言ってはちゃぶ台を引っくり返し、「話し声が大きくてうるさい」と言っては物を投げつけたり、手近にある物で殴る。


 哲朗などは一度囲炉裏の火箸で頭を殴られて腫れ上がり水が溜まってぶよぶよになった。一晩中冷やして、まあ無事に数日して直ったこともあった。子供達はいつもお父さんの前ではびくびくしていた。


 義三は前ほどがむしゃらに働かなくなった。気が向けば人の倍ほども働くが2、3日も続けてお酒ばかり飲んでいる時もあった。その分私たちを無性に追い立てた。子供達は学校へ行く前に牛馬に餌をやり、学校から帰り着くとカバンを置くなり畑へ出たり牛馬の世話をする。これでも自給自足ができ、義三がいらいらしなければここの生活ものんびりしていて、いいかも知れないと思うこともあった。


 冬は厳しいが5月になれば一斉に花が咲き、カッコウが朝早くから鳴き続け、海の方を見渡せば近くに天売(てうり)、焼尻(やぎしり)の島が見え、晴れた日にははるか北の方に利尻富士(利尻岳)が望まれる。子供達は思う存分スキーが出来る。実際、冬に学校へ行く時は義三手製のスキーを使うのである。


第7章 脱出
義三 38歳 保子 36歳 武 13歳 寿美江 12歳 晋悟 9歳 哲朗 4歳 敏恭 2歳


 昭和28年、武が中学2年生になったばかりのある日、学校の身体検査で精密検査を受けるように注意された。精密検査を受けるには羽幌まで行かねばならない。一日がかりであるし費用も無い。


 義三は獅子が千尋(せんじん)の谷にわが子を突き落として強いものだけを残すというたとえのように「百姓に弱いものはいらない」と言う。私は「このままでは武を死なせてしまうかも知れないから大阪へ帰ろう」と頼んだが、「こんな無一文で格好悪くて帰れるか」と耳を貸さない。


 私は思い余って母に手紙を出して実情を知らせた。今まで心配すると思って、全然泣き言を言わなかったので、何とかうまくやっていると思っていた母はびっくりして、「すぐに帰って来い」と旅費1万円を送ってきた。幸い武が学校の帰りに郵便局から受け取ってきた。


 義三に見つかったら実家に知らせたことが分かって、どんなひどい目に合わされるか分からないし、取り上げられてお酒に変わってしまうかも知れない。武は大阪に帰りたいと言うし、私も何日も迷いに迷った末、やっと義三を残して私たちだけで逃げて帰ろうと決断した。


 機会を待った。義三が開拓者の集まりに隣の部落へ泊りがけで行くことになった。学校は夏休みである。子供に手伝わせて夜通しかかって、牛と馬に水と餌をどっさり宛がい、もし義三の帰りが遅れても大丈夫なようにした。


 持ち物とて何も無いので着の身 着のままで夜明け前に出発した。敏恭を背負い、子供達も手を引き合って人に見つからぬように裏道伝いに山を下り豊岬に辿り着いた。村の人に見つからぬように隠れてバスを待った。羽幌で汽車に乗り、函館に着いて連絡船に乗るまでいつ義三が追っかけてくるか、巡査が捕らえに来ないかと待合所の隅に小さくなっていた。連絡線に無事に乗った時はやっと人心地がついた。


 義三の大きな声にはドキドキして、口答え一つ出来なかった、あかんたれの私にとっては一世一代の冒険であった。子供達がいなかったらとても私にはそんな勇気は無かったことだろう。


 青森で母に電報を打ち、3日目の夕方大阪へ着いた。大阪を発ってから8年、長い長い8年であった。大阪訛りも懐かしく、二度と踏む事は無いと思った大阪へ戻ってくることが出来て、母の顔を見たとたん、涙がどっと溢れ出た。


第8章 帰阪
義三 38歳 保子 36歳 武 13歳 寿美江 12歳 晋悟 10歳 哲朗 5歳 敏恭 2歳


 大阪はもう戦争の影も無く、皆こざっぱりした服装をしていた。私達の粗末な服装の上に汗と埃にまみれた姿はみすぼらしく、かなり目立ったことだろう。母に「格好悪いから離れて歩いて」と頼まれたくらいだから。


 私たちが北海道に行っている間に姉婿の篤士(とくお)も弟の(まさる)も復員していた。亡くなった姉の後へ妹の智恵子が直って、甥の(ひろし)と3人で実家を出て堺市四条通に住んでいた。石津の実家には母と弟の大、嫁、それに子供が住んでいた。母は嫁に私達のこんな姿を見せるのは格好悪いと言って、ひとまず四条通の妹の家に落ち着かせた。


 そのあと 3日ほどして実家に移った。弟夫婦も良くしてくれたが、幼い子供もいることだし、母は迷惑を掛けないように一所懸命子供達の世話をしてくれた。私は早速篤士の世話で大阪の新町にある青山機工の事務所へ勤めに出た。


 義三からは何度も手紙が来た。「帰って来い。どぶ酒は造らない。皆に米の飯を食べさせる。もうこれからは優しくする。」とかいろいろ書いてあった。あの熊の鳴き声のする山奥に一人残されて、いくら気の強い暴君の義三でもさぞ淋しいことだろうと可哀想な気もしたが、もう戻る気にはなれなかった。「私たちは大阪で暮らす」と返事をしたので、義三も諦めて翌年8月引き揚げて来た。


 農家の人に農機具や家畜等の国からの借り入れを肩代わりしてもらう代わりに、開墾地を渡したので無一文であった。8年間の血の滲むような苦労は何だったのか。残ったのは家庭の不和と武の病気である。幸いにして武は検査の結果、過労と栄養失調で弱っていた由で母や兄弟たちの助けで程なく恢復した。子供にとっては過酷な労働だったのだ。


 昭和29年、義三が引き揚げて来たので私たちは実家を出て、大阪我孫子の商店街で小門(こもん)家の表を借りてお菓子屋を始めた。費用は叔父末太郎に借家2軒の中1軒を売らせてもらった。35万円だったと思う。1年くらいして何とか生活できるようになったら、義三は「もともとこんな小売は自分には向かない」と言って店を手伝わなくなった。店から10分くらいの住居から歩いて通っていたが、夕方起きて来ては店の売り上げのお金をポケットに入れて飲みに行き、飲み屋が閉まるまで帰って来ない。いつも夜中の1時か2時頃だっただろう。子供達は学校から帰るとすぐに店を手伝いに来たり食事の支度をしたりした。午後11時に店を閉めて帰る毎日であった。


第9章 夫の死
義三 41歳 保子 38歳 武 16歳 寿美江 15歳 晋悟 12歳 哲朗 7歳 敏恭 5歳


 昭和31年2月のことであった。夜中、パトカーに起こされた。義三が道で酔いつぶれて寝ていたので連れて来てくださったのである。寒い頃のことで「病院で注射でもしてもらった方が良い」と言われたので、私も一緒にパトカーに乗って府立病院へ行った。病院の医師によると、「朝になって、目が覚めたら帰っても良い」ということなので、私は着替えを取りに家へ帰り、子供達を学校へ送り出してから再び病院へ行った。


 目の覚めるのを待っていると、9時頃、突然大きないびきをかきだした。慌てて看護婦さんを呼ぶと医師が駆けつけてきた。脊髄から液を採ったり、酸素吸入をしたりしてくださったが意識は戻らずじまいでそのまま死亡した。すぐ、篤士や子供達を呼んだが、あまりにも突然のことで茫然としてしまった。


 脳出血の診断だった。家へ帰る途中に何段かの石段があり、酔っていて踏み外し、落ちて石畳で頭を打ったのかも知れない。今までも酔って道に寝ていて寒くなり、目が覚めて帰って来たこともあったらしい。巡査が道に脱いであった服を届けてくださったこともあった。今度は頭を打っているので目が覚めなかったのか、あっけない最後であった。その2、3日前、哲朗と敏恭に自転車と三輪車を買ってやるからと夜遅く商店街へ連れて行ったのに、店が閉まっていて買えなかった。こんなことは生まれて初めてなので、私は不思議に思ったのだったが、義三も少し気が弱くなっていたのかも知れない。


 その時、弟の大は脳出血で入院していた。母が病室にいるときに、義三が巻きずしを持って見舞いに行ったので、母は「義三にもこんな優しいところがあるのか」と喜んでくれた。その義三が数日後に亡くなったのだ。


 思えば義三も戦争の犠牲者なのかも知れない。5歳の時、糯米問屋をしていた父が亡くなり、いつかは再興しようと同業者で叔父の持つ白井商店に住み込み、丁稚同様にして商売を勉強して、やっと独立したと思ったら日支事変でお米が統制になり廃業の憂き目に会った。徴用で軍需工場へ、そして終戦と同時に開拓へ。その開拓も思うように成果が上がらず、やけを起こして家族に当り散らし、暴力を振るい、わがままのし放題だった。見掛けは強そうだったが芯は弱かったのかも知れない。あの頃は戦争のため、ほとんどの人が大なり小なり苦労しながら生き抜いてきたのだが。


 義三が亡くなってから子供達と助け合って一所懸命に店を守ってきた。それこそ盆も正月もなく年中無休で、朝の9時から夜の11時まで店を開けていた。そうしなくては収入が足りなかった。今まで 義三が売り上げの中から飲み代を持っていくので、問屋の支払いが滞っていたのである。武や晋悟もアルバイトのお金を全部家に入れてくれるし、問屋も気の毒に思ったのか内金で品物を入れてくれて助けてもらった。


 そうこうする内に、家主から立ち退きを迫られた。昭和34年である。せめて晋悟が高校を卒業するまで待ってほしいと頼んだが、酒に酔っては嫌がらせをするので、とうとう耐えかねて36年に店をたたみ、母達の助けを借りて堺へ引っ越した。早速、篤士の世話で大野芝の青山機工の工場へ勤めたが39年に倒産した。40年、これも篤士の世話で堺東の山下商会へ勤めるようになった。


第10章 受洗
保子 49歳 武 27歳 寿美江 25歳 晋悟 23歳 哲朗 18歳 敏恭 15歳


 昭和41年に晋悟と共にキリスト教の教会で洗礼を受けた。この3年ほど前から武が教会へ行くようになって洗礼を受け、そのあと40年に牧師の紹介で結婚の話があったので、私も教会へ行くようになったのである。聖書を学ぶうちに私の人生観は大きく変わっていった。

 それまでずっと生活に追われ、子供達と無我夢中で働いてはいつも「こんな苦労せんならんのは義三のせいだ。働き盛りなのに、家庭を顧みず、お酒で命を落とすとは何と無責任な親だ。」と死人に鞭打っては恨んでいたのだった。


 「苦しみにあったことは、私に良いことです。これによって私はあなたのおきてを学ぶことができました。」という聖書のみ言葉を知った時、目が開かれたのだ。


 思えば島之内の商家に生まれ、奉公人たちにちやほやされて何不自由なく育てられ、本当に世間知らずの私が結婚後まるで知らなかった人生を歩いて来たのもすべて私が人並みになるために、神様が私に与えられた訓練だと思った。お菓子屋をやめなければならなくなった時には「これからどうして生活していこうか」と心配したが、今にして思えば義三が店を始めてくれたために何とか食べて行けたのだし、会社勤めをしたお陰でそこそこの厚生年金を頂けるようになった。


 木こりやニシン場、農家の田植え、稲刈り、そして乳搾り、最も重労働だった開墾と、都会では味わえない貴重な体験をさせていただいたのは、愛するものを訓練される神様の配慮であったとしか思えない。


 そう思うと今まで母や兄弟は言うにおよばず、多くの人達に知らず知らずのうちにお世話になったことに思い至り、何か人のためになりたいと思うようになった。その時の職場は皆に大切にしていただいて大変居心地が良かったが、何かに駆り立てられるような思いで河内長野の老人ホームに仕事を移った。それから、63歳まで8年間働かせていただいた。


 老人ホームに勤めている間に河内長野市福祉協議会の点字講習会が週に1回夜に半年くらいあったので退職後のために受けた。


 昭和55年、退職してすぐ堺の講習会も受けて点訳ボランティアを始めた。平成9年、時代の流れで点訳もパソコンになるので講習を受けることになったが、私も80歳になったのでこれからパソコンを習って点訳を続ける自信もないので、17年間の点訳ボランティアに終止符を打った。


 まだ体力も残っているのに自分の事ばかりするのはもったいないと思い、「障害者施設あけぼの」の作業所のお手伝いをすることにした。初めは毎日のように通っていたのにだんだん作業が少なくなり週1回くらいになった。不景気のシワ寄せがこんな所にも来るのかと残念だった。


 私も85歳になり視力も衰えてきたのでボランティアを止めた。「もうゆっくりしなさいと」神様の思し召しかとも思っている。振り返ってみれば我ながら良く働いてきたと思うが、現在は神様が充分に報いてくださっていると感謝している。


 日曜日は必ず教会での礼拝を守り、お友達との楽しい交わりを持っている。子供達や孫達、ひ孫達が沢山いるので嬉しい事もあるが心配な事もある。しかし、神様がすべてを益に変えてくださると信じている。


平成16年3月 吉田保子


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