国の歴史(96年10月22日)

年 代 出 来 事 元 首
1750年頃
アラブ人とヨーロッパ人による奴隷貿易が始まる
 
1875年 エジプトの支配下に入る  
1885年 フランスによる侵略開始  
1906年 フランス領ウバンギ・シャリとなる  
1911年 国土の一部をドイツが占領  
1919年 フランス領に戻る  
1945年 ボガンダがブラックアフリカ社会労働党を結成  
1957年 自治政府誕生  
1960年 独立 ダッコ
1965年 総合参謀本部のボカサ大佐による革命 ボカサ
1977年 ボカサ皇帝により中央アフリカ帝国となる ボカサ
1979年 共和制に戻る ダッコ
1981年 コリンバ国軍参謀長が無血クーデターにより軍政を敷く コリンバ
1985年 民政に移行 コリンバ
1986年 新憲法制定 コリンバ
1991年 複数政党の合法化 コリンバ
1994年 大統領選挙によりパタセ政権誕生 パタセ

奴隷貿易時代
位置図
 中央アフリカの国民の85%を占める黒人をバンツー系と呼んでいるが、これが人類学的または民族学的に正しいのかどうか定かではない。しかし、有史以前には熱帯雨林地域を中心にして生活をしていたウバンギ系黒人とサバンナ地域を生活の中心としていたスーダン系黒人が中央アフリカで境をなしていたらしい。

 このころは両方の民族ともに殆ど問題がなく平和にすごしていたと思われる。また、中央アフリカはその地理的位置から考えてアフリカの歴史の上で大きな役割をしていたと言われている。

 ところが18世紀に始められた奴隷貿易によって中央アフリカの歴史は恐怖の歴史へと変わることになる。7世紀頃からこの地域は紅海と地中海へ抜ける要所であるチャド湖とナイル川上流を本拠とする強大な帝国の支配下にあった。

 アラブ人あるいは回教徒の影響を受けた奴隷商人がウバンギ地域(中央アフリカの南部のウバンギ川流域一帯)を重要な奴隷の供給源と考えたらしい。そして、18世紀中頃から奴隷狩りの組織を編 成し、現在の中央アフリカの北部と東部で捕らえた奴隷をサハラ砂漠を経由してエジプトや北アフリカへ輸出した。これを東方奴隷貿易と呼んでいる。

 これに対してヨーロッパ人が行った西方奴隷貿易が同じ時期に行われている。ポルトガルの商人を中心としたヨーロッパ人が黒人の奴隷ブローカーから奴隷を買い取った。この奴隷たちはバンギからウバンギ川とコンゴ川を船でブラザビルまで運ばれ、現在のポアントノアールの近くの港まで陸路で運ばれた後、大西洋を越えてアメリカ大陸まで運ばれて行った。

植民地時代

 大規模な奴隷貿易が原因で19世紀には大きな民族の移動が起きた。東方、西方そして北方から民族が移住して来てこの地に定着し、1875年にはエジプトの支配下に置かれることになる。このあと、以前からアフリカ侵略を行っていたヨーロッパ人によって1885年に再びこの地に悲劇がもたらされることになる。コンゴ盆地を支配していたフランスはこの年に北方への侵略を開始し、1989年にバンギを自分の支配下に入れた。しかし、フランスの進入はこのあとドイツとベルギーとの衝突となり、最後は最大の強敵であるエジプトを相手にすることになる。

 エジプトは防衛部隊を組織したがフランスはアルジェリア、ニジェール、バンギから攻め込み、1900年4月22日にエジプト軍を撃破した。そのあと数年、戦争や一方的な交渉が行われ、1903年12月29日にフランスがウバンギ・シャリとして完全に自分の支配下に置くことになる。フランス領赤道アフリカ(AEF)の一員として正式にフランス領ウバンギシャリが誕生したのは1906年である。しかし、カメルーンを支配していたドイツが1911年から1914年にかけて西側半分を占領し、1919年に再び正式にフランス領に戻った。

 20世紀の初期には17のフランス政府認定の会社が国土の半分を私有するようになり現地での課税の制度も導入された。この制度のあとには人口の急激な増加に対する種々の行政の介入も行われ、ゴム、綿花、コーヒーの農業が取り入れられた。

反植民地運動と独立

 第2次世界大戦のあとアフリカの各地で民族の解放運動が起きる中、ウバンギ人(中央アフリカ人)としては始めての国会議員であったベルテルミー・ボガンダがブラックアフリカ社会労働党を1949年に組織した。自治のための基本法が出来た翌年の1957年にウバンギ人による最初の政府がに作られた。これは6人で構成され、大統領にポール・ボルジエ、副大統領にアベル・グンバがなり、ダビッド・ダッコが農業を担当した。ボガンダはこのときブラザビルに本部を置くAEF会議の総裁になっていた。

 1958年9月28日に行われた国民投票では98.1%がフランス製の憲法に賛成し、この国は第5番目の自治州になるとともにフランスアフリカ共同体が設立された。12月8日にはボガンダの率いる新政府が作られ、議会は中央アフリカの独自の憲法を制定するための議会となり、1959年2月9日に自由を尊重した議会制の憲法を採択した。この議会がそのまま国会になり4月5日には最初の国会議員選挙が行われたが、独立の立役者であるボガンダは3月に既に飛行機事故で死亡していて、独立政府が完全に成立するのを自分で見ることは出来なかった。

 グンバがボガンダのあとを引き継いで大統領になり、そのあとダッコが国会によって大統領に選ばれた。1960年8月13日に独立が宣言され、14日には国会がダッコを国家の元首とする法律を承認し、1964年に100%の支持を得て再選されている。

ボカサ皇帝

 1965年12月31日にダッコ政権は彼の従兄弟で国軍の総合参謀本部のボカサ大佐による革命で転覆される。ボカサ率いる革命委員会が1966年1月3日に設立され、その中には3人の現役将校と2人の高級官僚の名が並んでいる。高級官僚の中には後の大統領であるパタセの名もある。ボカサのシステムは2つの憲法上の条項を基礎にしている。それは1月4日に制定された国家の窮状を救うために国家主席に相当な権限を与えると言う条文と、1月8日に制定された大統領に絶対的権限を与えるというものである。

 その後、無制限に贅沢を極め専制的になっていく彼のシステムに反抗して軍や警察が幾度と無くクーデターを試みるが失敗に終わった。1976年12月4日にボカサは中央アフリカ共和国を帝政にすることを決定し、1977年12月4日に彼が中央アフリカ帝国の皇帝になった。ボカサ皇帝の悪政と浪費により国の経済状態も財政状態も悪化の一途をたどり1978年7月にはパタセ首相が辞任し後任にオンリ・メドが就任した。

民主化へ

 1979年の学生のストライキでは軍による徹底的な鎮圧作戦で大量の死者が出た。国際アムネスティから既に告発されていた政権の横暴についての調査ミッションからの報告を元にフランスは中央アフリカへの財政援助を9月21日に凍結するとともに在住のフランス人の救出のために特殊部隊を投入した。フランスはダッコ政権誕生の手助けをし、9月26日には財政援助を再開した。フランスと中央アフリカ政府は共同で再建策を作った。

 1981年3月の選挙ではダッコが勝利を収めたが反対候補の陣営から選挙の無効宣告をされた。社会、経済のあらゆる分野でストライキが続発し、9月1日に責任を取ったダッコは社会秩序の回復のために当時国軍参謀長であったアンドレ・コリンバに政権を譲った。1981年から1984年にかけて優秀な兵士の養成に力を入れ、結果的にはコリンバ政権は12年間続いた。コリンバは1985年に政体を民政にし、1986年11月21日に新憲法を制定するとともに自分自身が国家主席となった。

 1991年3月に再び首相の制度を作り、4月には複数政党を合法化して殆どの政治犯を釈放した。その後曲折はあったものの1993年9月27日の選挙でパタセ大統領が選出された。

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