ゲストコーナー   バンギの「ある日」
Mocaf
<筆者の住んでいたアパート>
  外はまだ真っ暗だというのに、もう小鳥がさえずりはじめている。私たちの住むアパートは、6−7mの高さの大木に囲こまれていて、地上から空を見上げると、3/4は木々の緑に埋まっているという感じだ。「うぁー、私は世界三大熱帯雨林のひとつの中で、生活しているんだー」と実感する。小鳥たちはその大木の上の枝のほうで鳴いているのだから、2階に住む私たちには、上から降ってくる音のシャワーにつつまれ、音響効果抜群で聴えてくる。鳥の声もまた、ユニークなのだ。

  「チュー・ビット・チョン、チュー・ビット・チョン」とか「パッ・ピエポッ・ピッ、パッ・ピエポッ・ピッ」とか「ニルソンさん・チチッ、ニルソンさん・チチッ」とか。はっと気がつくと、私も一緒に歌っていたりするほど楽しい。音色からして、私は同じ鳥の種類なのではないかとふんでいる。機嫌のいいときなど、この鳥狂ったかと、言わんばかりにめちゃくちゃ声を張り上げてさえずったり、今日は調子悪いなというときは「ジュー・ビッド・ジョン・ヂヂッ」とトーンも下がり気味となる。

  ある夜明け前、私は「ホー・ゲギョ・ゲギョ」という鳴き声で目を覚ました。あれ、これって、うぐいす? まさか、ここはアフリカ熱帯雨林、そんなはずありますまい。しかし、やっぱり、さんざん練習した挙げ句、とうとうホー・ホケキョと鳴けるようになったのは、夜もだいぶ明けてきたころであった。という日もあった。(多分これは、絶対夢ではなく、本当にあった出来事として私のなかでは、処理されている)

  2月の乾期の一番熱いときの寝苦しい夜明け前、そうやって早々と起こされるのが日課だ。アフリカの人たちの朝は早い。北緯4度のバンギは大体ほぼ1年を通して、朝6時前に夜が明け、やはり夕方6時前には日が沈む。朝は6時すぎごろから、ぞろぞろ勤務先へむかって人の波が道路にうねる。徒歩通勤が当たり前のところなのだ。

  アパートの隣は国営ラジオ局。電話通信網の発達もなくテレビもニュースが夜1時間あるのみのこの国で、ラジオは庶民のあらゆる生活情報源(個人的にも冠婚葬祭の個人呼び出しなど伝言板的なコーナーもあるらしい)なのだ。ラジオ局の門番は、軍隊で夜中も常駐していて時折話し声が聞こえて目を覚ますこともある。

  6:00、目覚まし時計とともに私たちも起きる時間だ。ウバンギ川から100mと離れていないところに建つこのアパートは朝靄につつまれ、むっと暑い。そんな空気の中を、トランペットの美しい音が朝が来たのを告げる。朝の空気にリーンと響いておごそかになりわたり、しばらく余韻を残して静かに消えていく。

  このアパートはベルギー人経営のビール工場が広がる一角にある。我が家のアパートの家主は、ビール工場の経営者。植民血時代からあるという古い4階建てのコロニアル調のアパートだ。朝は、主人や子どもたちが、すぐソバにあるホテル・サントル横のパン屋“ソコトラ”へフランスパンを買いに行く。1本75FCFA(約30円)で焼きたてのフランスパンはまあまあの味だ。朝食はテ・オ・レとフランスパンに、バター、ジャム、チーズ。

  牛乳、バター、チーズなどの食料品は、市内3つのスーパーでフランス製の物が買える。毎週木曜日午前中には、パリから生鮮食料品が空輸されるので、野菜、果物、乳製品を目当てに木曜日の午後は買い出しと決めている。その時はスーパーも大勢の外国人客でにぎわう。しかし空輸される食品は高価で、パリの市価より4〜5倍にはね上がり、ある時立派なカリフラワーを1玉買おうとしたら、日本円にして1000円以上もするので、驚いた記憶がある。

  玄関のチャイムが鳴った。6:30だ。我が家の私用の運転手ポールだ。子供たちの学校が始まるのが7:20なので、7:05には、家を出発しなければならない。月曜日から土曜日まで毎朝7:20から12:00までのフレンチスクールだ。ここバンギで外国人子弟の通える学校は、唯一、このフレンチスクールしかない。フランス空軍の一大基地のあるこの国はフランス人が多く、この学校もフランス人経営で教師陣はすべてフランス人(フランス政府派遣の教師もいる)。幼稚園から高校まで約1000人の子どもが通い、うち半数はフランス人子弟である。

Bangui Map   さあ7:00、子どもたちは、スナック菓子と水筒を持ち、おもいカバンを背負い、ポールの運転する年代物の赤いルノーで出発だ。家からホテル・サントルの前を過ぎ、ボガンダ・アベニューを渡り突き当たりの大統領府を左へ、左側に郵便局を見て、ユニセフ事務所の角を右へとり、さらに左へ曲がるとドイツ大使公邸と大使館、エジプト大使公邸と大使館などが山手側にに並ぶ通りへ入る。山の麓なので緑がうっそうと濃い。それを過ぎて、同じ山手側に見えてくるのが子供たちの通うフレンチスクールだ。

  山の斜面に点在する学校でフランス人らしいセンスでアフリカらしさを取り入れたカラフルな平屋校舎群だ。敷地もゆったり山の斜面を利用しているから休みの時間は子供たちのうってつけの遊び場となる。鳥のひなや蛇や一風変わったアフリカのカタツムリにも出会うらしい。娘はCE2(小3)息子はMaternale3(幼稚園年長)。仏語圏外からの外国人子弟のために仏語補習授業が週2回夕方の1時間、学校で行われている。山のふもとの校舎でしかも夕方でなのでよく蚊に刺され、予防薬を飲んでいても子供たちは半年間で2度ほどマラリアに罹った。

  今朝は主人がボッサンベレの現場へ出発する。だいたい火曜日の朝にバンギを出て週末に帰ってくるというパターンだ。主人の不在の時に子供が病気になりませんように、何事も起きませんように、と祈りつつの生活だ。主人は現場に行く準備に掛かっている。

  7:30にボーイのフランソワが「ボンジュール!!」と元気よく入っきた。本当に良くくるくると働くおじさんだ。53才で子供は12人。ついこの前も女の子が生まれた。運転手のポールもフランソワも熱心なプロテスタント信者で、フランス語の読み書きもする。何せ、我らがフランソワおじさんは村の隣組長なのだ。政治へのポリシーもしっかり持っている。フランソワは植民地時代に教育を受けた人でその頃の方が教育も立派にされていたと懐かしがる。今、公務員の給料未払い問題で公立小中学校から唯一の国立大学まで閉鎖状態なのだ。フランソワはわが子たちのために自費で村の教師私設寺子屋に通わせている。

  フランソワに掃除のことなどを指示して主人を送り出したあと私はアフリカの布地などを使ってランチョンマットやティーコゼー、カバー類などを作ったりして過ごす。そんな小物類でここでの生活に潤いが生まれるのを楽しいと思う。掃除の時、蜂が同じルートで飛んできて、私たちのベッドの棚の下に入って行くのに気付く。そういえばこのところいつもこの路線を飛行している。追跡すると何とベッドの棚の下に赤土でできた蜂の巣があるではないか。「フランソワー!!」。ハッハッと笑ってほうきとちりとりで取ってくれる。その中には蜂の幼虫と白い卵が10個ほど入っていた。

  本当に油断していたらビデオデッキの中とか戸棚の角とかに赤土の巣をこしらえるのだ。この前などはふっと風にひらめくカーテンに“人形用の”と言っていいくらいおあつらえ向きの“素焼き風とっくり”がこびりついていた。1cm×1.5cmほどのものであったろうか。「フランソワー、来てー」。おじさんはやっぱりハハと笑って手でつぶした。そんな小さなとっくりの中にも幼虫1匹と、卵2個が入っていたから驚いた。

  もう一つ、主婦としての悩みの種が蟻だ。外のベランダにも家の中にもいたるところに蟻がいて、ちょっとお菓子を置いていたらもうドバッと蟻の黒山。甘いものだけでなく、肉やふりかけ、かつおぶし、歯磨き粉、汚れた下着にも来る。本当にギャーと叫んでしまうほどの蟻の黒山に何度身の毛のよだつ思いをしたことか。台所には密閉ビンが必需品だし、とにかく保存食品は大型冷蔵庫に入れておくのが確実だ。

  ある日、主人はベランダの蟻をたどってとうとう蟻の大根拠地を見つけた。そこは冷房機のトタンの受け皿だったのだ。暖かくて湿り気もあり、人間も気づかない格好の隠れ家。何万個とびっしり並んだ蟻の卵の光景を私は見たいと言ったが主人は見せてくれなかった。

  そんな、主婦としての虫との戦いの内にも子供の迎えの時間となる。校庭の木陰で子供たちを待っているとお友達のお母さんと出会う。最初フランス語でペラペラッとやられるのが怖かったがずいぶん度胸もすわってきた。分からなくてもウィ、アボンと言ってしまう悪い癖が付いてしまった。「ボンジュール」。男の人の声に振り返るといつものムッシュだった。彼らは入学の日、日本人家族のように(この学校にはアジア人もほとんどいない)見え、話しかけたところから、挨拶を交わしたり話をするようになった。

  この人たちはベトナムかラオス人と思われるが「私たちはフランス国籍を持ったフランス人です」と自己紹介した。フランス政府派遣の人でこの学校に通う3人の子供がいて、このムッシューが子供の送り迎えをしている。いつもニコニコとあたたかい人柄だ。じっと待っていても2月の太陽は人の影までも焼き尽くしてしまうほどあつい。空がどんより黄色っぽいのはハルマッタンが始まったせいか。子供たちが汗びっしょりの土まみれでTシャツをどろどろにして坂を下りてきた。今日も元気に遊んだようだ。帰ったらシャワー室へ直行だ。

  今日の昼食はスパゲッティにチーズをたっぷりのせ、フランソワおじさんの特製のスープをかけたもの。ふだんは私が昼食を作るが、時々子供たちが大好物のフランソワおじさん特製のスープを注文するとおじさんは朝からグツグツと手間暇かけておいしいスープを作ってくれるのだ。

  午後からは日本の子女教育財団から毎月送られてくる通信教育のワークをする。毎日算、国、理、社のどれか1枚ずつやって月末にまとめの添削問題をこなしてゆくと日本の学校と同じペースで勉強ができるというシステムだ。国語の音読や、日本の歌、日本の季節の語などの入ったテープも2か所に1回届き日本の四季を懐かしんだりしている。

  子供の習い事として娘は週2回フランス語の家庭教師をお願いしている。息子も小学校へ入ったら家庭教師を付けねばなるまい。今日は息子は3時から空手(先生は若い中央アフリカとポルトガルのハーフ)で、今日は4:30から娘のバレエのある日だ。バレエの先生はイギリス系カナダ人でその昔英国ロイヤルバレエ団にいたかくしゃくとした初老の婦人。その先生の家で週2回レッスンがある。空手はその先生のお宅の広い庭でやはり週2回行われている。バレエ着もバレエシューズも胴着もバンギにはなく、パリで買ってこなければならない。生徒は圧倒的にヨーロッパからの子供たちだ。

  娘はピアノも習っている。ピアノも日本から運べず、バンギで買えるはずもなく小さなキーボードを日本から持ってきて練習している。先生を捜すことすら苦労して、今はエジプト人の先生について習っているが、娘はジャズっぽい弾き方をする先生に嫌悪感を持っている。もう少し良い先生がいないものかいろいろお友達のお母さんに聞いてもらっている。

  ボーイのフランソワは洗濯物にアイロンをかけると3:00で帰ってゆく。運転手のポールは普通4:00までだが主人のいない日は子供の送り迎えがあるので5:30くらいまで残業してもらう。

  子供は本当に精力的に遊び回る。お稽古や家庭教師、日本の勉強の合間を縫ってしっかりお友達とも遊ぶ。泊まりあいっこもする。当初日本人の子供は我が家の2人だけだったが、去年の暮れに大使館に2人の姉弟がふえた。年頃も同じくらいなのでよく遊ぶ。バレエや空手を通しても友達がふえていっているようだ。おけいこの送迎はなるべく私も一緒に行くようにしているがポールは一人でも良くやってくれる。

  日没はだいたい5:45頃だがうっそうとして高い木々に太陽が隠され5時を過ぎるとだんだん薄暗くなり始める。。川に近いせいか木々が多いせいかこのあたりは蚊が多いから5時前には窓を閉め、日没とともに蚊取り線香をたき始める。リビングの天井の扇風機もガランガランと回り始める。娘がバレエ教室から帰ってきてポールも帰ってしまうと主人のいない夜に備えて玄関のドアの鍵を上中下と3つ閉める。3人だけになると本当にがらんと広く感じられる。トイレと台所はリビングからベランダにいったん出て向こうにあるので主人のいない日はなるべく日が暮れる前に夕飯を終えておきたいのだが、バレエのある日だけは仕方がない。夜になるべく台所に立たなくていいように水やお茶など必要なものはリビングに運んでおく。ただし、蟻の攻撃にあわないようにタッパウェアや密閉ビン入りにして。停電に備えて懐中電灯もそばに置いておく。

  夕飯を済ませてシャワーを浴びる。シャワーの湯はイタリア製の電気温水器を使っているが家族3人までは続けてシャワーを使っても充分に湯が使える。ネパールにいた時はインド製の電気温水器で1人分の湯すら充分でなく、髪を洗っていたらもう水になり本当に心して使わねばならなかったことを考えるとありがたい。しかし、バスタブがないので日本の風呂がむしょうに懐かしくなる時がある。


The Inoue's
<筆者(左から2人目)と家族>
  娘の仏語の宿題にはホトホト閉口する。主人のいない日は私も一緒に辞書と首っ引きだが今日の宿題はライオンのオス、メス、子供はそれぞれ何という? 鶏は? 羊は? 犬は? 猫は? フランス語は男性形女性形とあって動物にはおまけに子の形まであったりして頭の回路はぐちゃぐちゃに絡み合い情けなくなる。本当にフランス語が恨めしい。こんなことで子供たちはフランス語の授業についてゆけるのだろうか。フレンチスクールに入学してもうじき半年になる

  宿題はほどほどに切り上げて、母子の就寝前のお楽しみ、読み聞かせの時間だ。子供たちはそれぞれのベッドに入り蚊帳をしっかりマットの下にはさんで“虫かごの虫”と化す。今読んでいるのはイギリスの物語“飛ぶ船”(岩波)だ。イギリスの4人の姉弟たちがこっとう屋で見つけた不思議な飛ぶ船で時間的移動と空間移動をして巻き起こす楽しくてスリルあるファンタジックな物語だ。ヨーロッパ大陸を渡り、地中海を越えサハラ砂漠を南下してアフリカへも来ているし、私たちが昔滞在していたネパール方面へも行っているからますます身近に感じてしまう。この話を読んでいると子供たちにとって蚊帳のベッドが飛ぶ船になってどこへも自在に飛んでゆける楽しい時間なのであろう、うっとりと聞き入っている。古代エジプトの探検に没頭していると私は蚊に刺された。植民地時代に建てられたアパートでよろい戸式のガラス窓は建て付けが悪くしかり閉まらないから蚊はしっかり入り込んでくる。

  さあもう9時。今日は停電もなく病気も怪我もなくネズミにもゴキブリにも出会わず安らかな日であった。「おやすみ」と電気を消すと静かなアフリカの夜が広がる。アフリカの人々は夜明けとともに行動が始まり日没とともに終わる。夕食後庭に置いた食卓テーブルのランプに家族が集まり今日一日のことを話しているのか。老人の昔話に耳を傾けているのか。そこここでゆらゆらとあたたかにともる明かりが点在する。アフリカの人たちが住む所はここからは見えないが、あの森の向こうのアフリカの人たちの生活を思いつつ空を見上げるとあふれんばかりの満天の星空であった。
1993年2月
井上 寛子

筆者:
井上 寛子(いのうえ ひろこ)
1992年から1995年にかけて建設企画コンサルタントに勤務する夫の中央アフリカ駐在に従い、2児とともに約4年間バンギに滞在した。
この手記は当ホームページの依頼により1997年2月に当時のことを回想して書いたものである。


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