中央アフリカからの緊急脱出行

(1996年9月)
(日本在外企業協会の「Monthly」1996年9月号に掲載されたもの)

Title

緊急避難で使用された仏軍機

 今年5月、給与遅配を理由に中央アフリカで発生した反乱兵氏による暴動や商店での略奪は、現地の在留邦人が国外に退避する深刻な事態まで発展した。当時、サイト(工事現場)に駐在していた鹿島建設・海外事業本部・中央アフリカ出張所長の吉田哲朗(てっちゃん)氏が一時帰国されたのを機会に、同氏に暴動の様子や国外退避の顛末(てんまつ)を伺った。
(聞き手:日外協・海外安全センター

5月18日、暴動発生


 −−皆さん全員無事でよかったですね。お疲れのところ早速で恐縮ですが、まず今回の暴動のニュースはサイトの方にはいつ頃、どんな形で入ってきたのですか。

 てっちゃん 首都バンギで暴動が発生したのは5月18日土曜日の昼頃ですが、その日の夕方には、私どものバンギ事務所のローカルスタッフからテレックスで第一報が届きました。翌日曜日にはとりあえず東京に状況を報告するともに、各所員の家族にも「現場とバンギとは相当離れているので特に危険はない」旨の連絡をしました。
 21日には外務本省(法人保護課)と情報交換ならびに今後のことについて協議を行いました。
 −−その時、サイトには日本人は何人位いましたか。

Speach

日外協。海外安全部会で報告するてっちゃん氏(左端)

 てっちゃん バンギ市内には在留邦人が20数人ほどいたようですが、サイトには鹿島の社員7人を含め全員で8人いました。暴動が起きた当時、私たちはバンギから北西約300キロのヤロケ地区で道路工事を担当していました。バンギからは相当離れていたこともあり、当初はそれほど深刻には受け止めていませんでした。

 −−キャンプ(宿舎)は現場の近くですか。

 てっちゃん バンギと現場にそれぞれ事務所がありますが、宿舎は現場事務所から20kmくらい離れたところにあります。昼間は事務所のほうに出て、夜は宿舎に戻る生活です。宿舎周辺では憲兵隊や兵士約20名の警備を受けていました。憲兵隊の駐屯地とは常に無線で交信できる状態で、今回も毎日情報を流してもらいました。
 宿舎の周辺は校正のフェンスで囲まれていて、そのフェンスの外側は100メートル幅で伐採して見通しをよくし、有刺鉄線でガードされています。この辺はサバンナ気候で草木の背が高くて見通しが悪く、セキュリティー上の問題があるからです。有刺鉄線の回りには素堀の堀があり、掘った土を外側に置いて土手にしているので、車両等は入れないし、万一泥棒が入っても逃げにくいようになっています。安全のためにこのように二重三重に宿舎の周りを固めているのです。

 −−キャンプはまるで要塞のような頑丈な作りですね。

 てっちゃん はい、セキュリティーの面から万全を期しています。われわれはカメルーンとバンギを繋ぐ国道3号線の舗装工事を担当しているわけですが、この道路から500メートルくらい入ったところにキャンプを設けています。この道路は結構人が通るのですが、道路から宿舎は見えないようになっています。宿舎に入ってしまえば安全ですし、今まで部外者が入ってきたことはありません。今回の暴動が起きた時も兵士の車が何台も通りましたが、夜間は大きな照明は消していたので、気付かれませんでした。

通信はSSBとインマルサットで


 −−通信設備はどんなものがありましたか。

 てっちゃん われわれの拠点は、バンギの事務所、現場の事務所、宿舎と3カ所に分かれています。これ以外にもクラッシングプラントやアスファルトプラントなどがあります。
 普通何も起きていない時は、バンギの事務所と現場の事務所間はSSB(連続的に周波数を帰られる日本無線の機械)を使っています。このバンギ事務所と現場事務所は24時間オペレータを置いて交信していました。テレックスも併用していました。
 宿舎のほうにもSSBの機械がありますが、これは平時には使っていません。夜中にバンギと交信するときだけスイッチを入れて使っていました。
 バンギの大使館にも同じ無線機があって、これも普段は使っていませんが非常時には使います。今回も2日ほど使いました。

 −−インマルサット(海事衛星)も設置されていたようですが。

 てっちゃん ええ。現場事務所にはインマルサットの機械を設置しています。これは屋外型ですから現場のユニットハウスの一面を外し、内開きのドアにして工事用の分厚いシートやエンビの浪板で張り、常にインド洋上の衛生の方向に向けています。ただ、夜はセキュリティー上よくないということで昼間だけ繋いでおき、電話だけは常にできるという状態にしておきました。東京へ繋いでファックスを送ろうと思えばできます。バンギと現場事務所の方にはSSBの固定局がありますが、そこはFMの無線の基地も兼ねています。これが約50キロ届きます。すべての車両には無線機を搭載していました。

 −−各種の通信機器を使う上で問題はありませんでしたか。

 てっちゃん SSBのバックアップが停電でバッテリーが上がってしまい困りました。インマルサットのほうは屋外型なので、雨が降るとか温度が極端に上がるオープンな所では24時間使用は不可能でした。何かあればアンテナを出して通信し、終わればまた畳んでしまうということになります。
 今回もバンギ事務所は停電のために無線機のバッテリーが上がり、インマルサットでは現場に連絡できないということで、東京のお世話になりました。東京とは早くから24時間体制で連絡できる状態になっていました。

 −−燃料や食糧の備蓄状況はいかがでしたか。

 てっちゃん バンギの事務所には通常はローカルのスタッフが3人程とお手伝いさんや警備の人間もいれると約10人常駐しています。日本人も仕事の帰りに泊まったりします。今回は暴動の前日に全員がサイトの方へ行っていまして、この時はローカルだけでしたが、日本人4人くらいがそこで動けなくなった場合のことを考えて、普段から2週間分程度の食料を備えています。

Meeting

従業員代表を集めて退避後の打ち合わせをする

 現場宿舎の方は食糧の問題はありません。現地の住民が生活していますので野菜や肉はサプライされていますし、日本食は米さえあれば何とかなります。問題は燃料です。燃料はバンギのデポ(タンク)からサプライされていて、これが止まると工事に影響します。それ以外の物資はカメルーン側から送られてくるので、燃料が止まるのが一番問題です。

5月20日、緊急避難対策会議


 −−暴動が発生してからの具体的な対応について、お聞かせください。

 てっちゃん 先ほど申したように18日に首都の方で暴動が起きたわけですが、今までにもしばしばデモがあったりしていたので、とりあえず様子を見ようということになりました。次の日(19日)は日曜で作業もなかったんですが、いつもとはどうも違うということで緊急召集をし、翌日会議をやろうと言うことにして、その時点で大使館と連絡を取り合いました。ヤロケ地区については鹿島の情報以外は全く入ってこないので、大使館としても対処のしようがなく、鹿島関係は私が責任を持ってやるということになりました。
 翌月曜日(20日)の9時から全員集まり会議を開きました。その時点ではまだ暴動はすぐに終わるだろうとたかをくくっていましたが、それでも、万一のことを考え、4時間かけて緊急避難の対策を練りました。いざとなったら何をしなければいけないかを細かく洗い出してチェックリスト(別添)を作りました。
 一方で、ローカルの人間があらぬ同様をしないように心を砕きました。それと最悪の事態を想定して備えておこうということで現場の工事も止めることになり、従業員にも事情を説明して納得して貰いました。

 −−いよいよサイトを引き上げる時が近づいてきたわけですが、その辺の状況を詳しく話していただけませんか。

 てっちゃん 翌火曜日(21日)には、バンギの状態がますます悪くなってきて、これはエバキュエーション(引き上げ)の可能性が高いなという感じになりまして、必要なインマルサットの機械やコンピューター類を運び出して、宿舎に仮の事務所を設置しました。
 同時にもう一度従業員代表20人程を集めまして、万一われわれ日本人が国外退避する場合はこちらに再び戻ってくるまで現場を守って貰いたい、協力を要請しました。この頃には準備は完全に終わっていて、動けと言われればいつでも動いていい状態になっていました。
 22日の時点で、サイトにいる外国人はわれわれ8人とスリランカ人7人の計15人、それからたまたま保護を求めてきた英国人旅行者などを加え、総勢32人に膨れ上がりました。

5月21日、日本大使館から退避勧告


 てっちゃん 在中央アフリカ日本大使館から在留邦人に対する退避勧告が出たのは21日ですが、われわれが邦人保護課から具体的な指示を受けたのは24日。25日に日本大使館と空路での退避を検討し、ヘリポートの段取りをしました。結局26日に仏軍の兵士7人と中央アフリカの憲兵隊の護衛付きで、ヘリではなく陸路をボアールの仏軍基地へ移動し、さらに同基地からバンギへ仏軍輸送機で移動しました。われわれ以外にも避難する者がいて搭乗者は60人ぐらいでした。バンギの基地で一夜を過ごしたあと、今度は米軍輸送機で臨国のカメルーンのヤウンデ空港に到着、日本大使館ので迎えを受けホテルに入りました。
 その後、ドアラへは高速道路を使って移動し、最終的には空路をパリ経由で6月2日に日本に無事帰ってきました。
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