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大陸の孤島・中央アフリカ共和国(1996年12月)(土木学会誌の1996年12月号に掲載されたもの) この稿は1996年3月に土木学会から投稿の依頼があったが、5月にバンギで暴動が起きたため見合わせていた。しかし、その後バンギの情勢が落ち着いたので12月号に掲載されたが、再びバンギで暴動が起き、ここに書かれている内容が、その後変化しているので注意していただきたい。中央アフリカ共和国ってどこ? 中央アフリカ共和国。どれくらいの人がこの国をご存じだろうか。地図が近くにある人は早速開いて見て欲しい(図-1)。
以前にルワンダ、ブルンジで内乱があったときに「中央アフリカで内乱」というふうに報道されていたが、これは中央アフリカではなくて「アフリカの中部」というべきであろう。中央アフリカというれっきとした共和国が存在するのだから。 この国は大きな内乱もなく平和に過ごしていたために日本人にはあまり知られない存在であったと思う。周りの国を見れば分かると思うが日本人に知られた国が多い。しかし、それは問題が多い国だということでもある。そういう国に囲まれたこの国がどうしてこんなに平和なのか。私なりにこの国の生い立ち、社会状況を調べてみたので少し記述したい。 ただ、人に聞いた話が中心なので事実と異なるかも知れないが、その辺はあらかじめ含んで読んでいただきたい。 私たちはここで、日本政府の無償援助資金を元に、この国の建設省が発注した42kmの現道の舗装化工事を施工している(図-2) どんな国? カメルーン、チャド、スーダン、ザイールおよびコンゴと国境を接し、アフリカ大陸のほぼ中央に位置する内陸国で、人口が約300万人、面積が日本の約1.7倍の民主主義の共和国である。旧宗主国はフランスで1960年に独立するまではウバンギシャリとよばれていた。
初代大統領のボガンダが無血でフランスからの独立を勝ち取り、その後ボカサ大統領が自分で皇帝を名乗ったり、クーデターが起きたりしたがほとんど流血は生じていない。 現在は時々問題が起きるものの一応は民主化が進んでいて、パタセ現大統領も国民の直接選挙で選ばれている。ただ、5月末には財政不足による給与の遅配に抗議した一部兵士によるデモが暴動に発展し、我々も含む邦人は一時国外への待避を余儀なくされた。しかし、それもイデオロギーの問題や、部族の問題で起きたものではないため、すでに収まっていて、私たちも工事を再開している。 国土のほとんどが緩やかな起伏のあるサバンナの平原で、北部に砂漠が少しと南部に熱帯雨林がある。首都のバンギは海抜350mくらいのコンゴ盆地の中にあるが、我々が工事をしているところ(ヤロケ地区)は海抜700mから800mくらいの高原地帯に属する。 一年はおおむね乾季と雨季に分かれていて、日本が夏の時が雨期、冬の時が乾期である。典型的な内陸性の気候で、乾期は一日の温度差が20度くらいあり、12月頃の早朝は10度近くまで下がることがある。正午過ぎには気温が最高になるが、逆に湿度が非常に下がるので、体感温度はそれほど高く感じない。しかし、感じないからといって水分の補給を忘れると脱水症状を起こして寝込むことになる。 雨期は温度の変化が小さくなるので幾分過ごしやすくなる。年間降雨量は1500〜2000mm程度で、スコールもあれば日本の梅雨のようにシトシトと降り続く雨もある。 この国の住人 国民のほとんどがバンツー系で、あとはアラブ系の商人が15万人、ピグミー系部族とアラブ系の元遊牧民が定着したボロロ族がそれぞれ2万人程度である。これ以外にヨーロッパ系が数千人いるがアジア系は皆無に近い。
バンツー系部族は農耕を行ってるが、主食はキャッサバ(後述)で、ほとんどのカロリーをこれに頼っている(写真-1)。芋、穀物は合わせて年間80万−100万トンほど生産するので、一人当たりでは300kg程度になる。また川魚を対象にした漁もする。家屋はラテライト(後述)の日干しレンガの壁に草葺きの屋根である。
ピグミー系の部族はコンゴとの国境に近い南部の熱帯雨林の地区を居住地域にしていて、草の葉で簡単な家を作ってはしばらくそこに住み、ある程度すると移動し、森の中では今もほとんど裸に近い姿で生活している(写真-2)。 最近は政府の定住化政策でバンツー系の居住地の近くに住み、農耕を営む者も多くなったが、ほとんどが未だにジャングルの中での狩猟採集生活である。したがって、子供の就学率は非常に低い。
ボロロ族はピグミー系の住居とはまた違う芦のような草で簡単な家を作って住んでいる。牛や羊を遊牧して生活しているので、政府の定住化政策をなかなか受け入れなかったのであるが、ここ数年で、定住化が相当進んで来ている。 これは政府の指導があるからではなく、相当な額であるらしい彼らの所持金をねらった路上強盗が時々現れるので、自己防衛上、村落を作って定住し始めたものであるらしい。今では牧場を確保しての放牧が主流である。 バンツー系部族とその他の部族は居住地域や生活手段が違うこともあって、特に利害の衝突がなく、お互いの争いは今まで皆無に近いそうである。 日本と中央アフリカとの簡単な比較をしてみた(表-1)。この国は一人当たりの所得が400〜500US$程度で、最貧国の仲間に入るが、今までに飢餓で苦しんだことはない。カロリー消費量はおそらく日本の戦時中程度であろう。しかし、国民のほとんどが貧しく、貧富の差があまりないので、経済的に底辺の人々も大体この数字と考えて良いだろう。食糧自給率は日本よりも上で、ほぼ自給自足が可能である。それに、人口密度が低いので、自然の果物が結構豊富で、マンゴーなどは最盛期には彼らだけでは食べきれないくらいに熟す。主食のキャッサバはフランス語でマニョックと呼ばれる芋で、一種の砂糖大根だと思えばよい。これを精製して作ったでんぷんがタピオカである。
調理の基本は熱い湯にゴゾを入れてかき混ぜ、葛湯(くずゆ)のようにする。 相当な臭みがあるので私にはとても食べられる物ではないが、ここの人々にとっては最高の食べ物である。キャッサバは葉の部分(グンジャ)も食べることができ、重要な野菜のひとつになっている。栽培方法は非常に簡単で、茎を適当な長さに切って地面に挿しておくと、種類によって違うが、およそ6か所から3年で芋が出来る。その間は水をやったりするような手間はほとんど必要がない。全く便利な芋である。 住居に使うラテライトとは鉱物の名前でその生成過程は知らないが、赤土色を呈しており、この国では豊富に見られ、粘土、シルト、砂礫、岩塊といろいろな形態がある。シルト混じり粘土質のものに水を加えて柔らかく練って木枠に入れ、その木枠をゆっくり上に抜くと豆腐のような物が出来る。そのまま日干しにしておくと数日でレンガになる。このレンガをラテライトの粘土をつなぎにして積んで壁を作り、草で屋根を葺くと住居が出来上がる。
中央アフリカの物流 物流は空路による方法以外に、カメルーンのドアラ港まで約1500km(走行する路線によって距離は変わる)を陸路で抜ける方法とウバンギ川とコンゴ川を利用した水路でコンゴのブラザビルまで運び、そこから大西洋のポアンノアール港まで鉄道か道路を使う方法がある。なお、コンゴ川はブラザビルから河口までの間にリビングストンの激流があるので、大西洋までの船舶の航行は出来ない。 首都バンギから国道1号線と国道3号線を利用してカメルーンへ抜ける道路は国の最重要道路であり、国道1号線(バンギ−ボッサンベレ間の約160km)は相当痛んではいるが、すでに舗装化されている。それに続く国道3号線は国境まで450kmあり、66kmは日本の無償援助で舗装されているが残りはラテライト土道である(写真-3、4)。 国境を越えてカメルーン側の道路はドアラまでの約880kmのうちアスファルト舗装されているのは半分にも満たない。ラテライトは雨期になると含水比が高くなって、極端に支持力が低下するため、降雨のたびに当局が通行止めにしており、物流に著しい支障をきたしている。乾期も雨期にいたんだ土道の整備がままならず安全で高速な走行は望めない状態である。 未来に向けて 特に資源に乏しい訳でもないこの国が思うように発展しないは、なんと言っても、内陸国という地理的条件のハンディが大きいと思う。ドアラとバンギ間の輸送が今の道路状態では1週間から3週間も掛かるのであるから、他の港湾を持った国々とは勝負にならないであろう。 また、ここの人々が怠け者かというとそうではなく、現に私たちの現場では、日本式に、現地人になるべく任せてやらせるようにしているが、彼らもだんだん自信を持ち責任を感じて、今では誇りを持って仕事をするようになってきた。これからも、今までの援助に加え、さらに人を育てて、彼らに自助努力を促すような援助の方法が大切なのではないかと思っている。 私も今の仕事が少しでもこの国の発展に役立つよう努力していく所存である。 |