<連載:てっちゃん in ラオス>

明けましておめでとうございます。 今回から私の活動報告やラオスの紹介をしていきます。
(2006/01/01)

  第1話  私の生き甲斐
Chao Fangum Garden
パトゥサイ
ビエンチャンの目抜き通りにパリの凱旋門を模して1970年頃に造られた。 最初は単にアヌサワーリー(モニュメント)と呼ばれ、戦争で亡くなった人の慰霊の目的だったらしいが、「勝利の門」という意味のパトゥサイに変更された。日本人は凱旋門と呼んでいる。

2005年7月にラオスの首都ビエンチャンに着いた。何をしに来たか? 自費で小さな学校を作り、そこの先生になろうというのだ。 私財をすべて投げ打って、とはいかないので予算を決めた。初期費用に700万円、月々の費用に20万円だ。「そんな予算で本当にできるの」と思うだろう。やってみないと分からない。

私の経歴を簡単に紹介する。昭和44年に土木工学科を卒業したあと、大手の建設会社に入社し、おもに工事の現場管理をして、平成15年に55歳で退職した。現場管理というのは若いうちは現場監督、出世すると部下を持つようになり、一番偉くなると現場の所長だ。

最初の10年間は大阪府内の現場、その後はずっと海外の現場に勤務した。休みもほとんど取れないときがあるくらい厳しかったが、本当に楽しく、やりがいのある仕事だった。自分の持っている技術を駆使し、人を育て動かして物を造っていく楽しさ、そして完成した時の喜びは経験したことのない人には分からないだろう。

なのに、40歳になった頃すでに決めていたのだ。定年になる前に会社を辞めようと。「将来、偉くなって給料が高くても、窓際族になるのはいやだ。定年後、燃え尽き症候群になるのも御免だ。だから、やりがいがなくなる前に会社を辞めて新たな人生を踏み出そう。」と考えていた。そして、いくつかの現場の所長の仕事を無事にやり終えて、55歳になったとき予定通り会社を辞めた。新しい生き甲斐を求めて。

生き甲斐とは何だろう。広辞苑では「生きていてよかったと思えるようなこと」とある。私にとって生き甲斐とは「未来の世に結果を残すような行為」だ。要するに、世のため人のためになることをしたいのである。でも、できることなら、他の人があまりやらないことがいい。
(つづく)